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20年前から頭にこびり付いている事。そして・・・。

1995年1月17日という日付を聞いてピンと来る人は、もう段々減ってきているのかも知れない。毎年、慰霊祭めいた事が地元を中心に行われているが、その意識も、記憶も、人々の脳裏から段々と薄くなってきている・・・ような気がするのは、なにも私だけではあるまい。そう、人は忘れる生き物なのだ。言い方を変えれば、段々と忘れる事ができるから、生きてゆける生き物だと言える。しかし、忘れるという事は時に「風化」という言葉で表す人がいる。何とも寂しい言葉だ。人の死が、本当の意味での死を迎える時というのは、その死が人々の記憶から消え、風化してしまった時なのだろう。

冒頭の20年前の日付は、死者6402人(兵庫県資料)を出した阪神・淡路大震災の起きた日付である。ちなみに正確な名称は「兵庫県南部地震(M7.2)」と言います。時間は午前5時46分。
私の自宅は北摂の京都の隣ではあったが、あの時は起きていましたので地震の終始を知っており、今も目を閉じると生々しくあの強烈な揺れを思い出す事が出来ます。体感的には永遠と感じる程に長い猛烈な揺れ、家なり、家具の足踏み・・・そして、停電による荒れた部屋での真っ暗闇。
時間が時間だったので、間もなくして外が白じんでは来たが、それ以上に恐怖で家内は蒼白、私も次の行動がしばらく取れなかった記憶がある。その後の断続的な余震にも恐怖を覚えて、徹夜であったにもかかわらず私は到底眠る事は出来なかった。
夜も完全に明けた数時間後、ようやく電気が復旧してテレビを見る事が出来た。後に私のいた地域は震度5であったと知った。(当時は震度5弱とか強といった表現はなかった)

テレビの向こうは始めは落ち着いた爽やかな朝をレポートするような番組内容であった。字幕で時々「兵庫県南部で強い地震がありました」程度の速報が流れるだけで、死者もしばらくして「1名」とだけ出た。
「あれだけの揺れなのに、意外と人は死なないんだな。日本の建築ってスゴいな。」
程度に私も思う程だった。それ位テレビの向こうは落ち着いていた。
ところが、時間が経つに連れて様相が変わって来る。朝の番組は軒並み臨時ニュースに切り替わり、死者数が5名、10名と発表の度に増え始めた。そして、ヘリからの映像がテレビに映し出された・・・。

私は息をのんだ。

その映像には、間違いなく阪神高速・神戸線の橋脚が数百メートルに渡って倒れており、辛うじて崩れずに済んだ路上では、トラックや乗用車が折り重なるように行き詰まっている情景が映し出されていた。

これは・・・映画?現実?

しばらく、嘘っぽい映像でも見るような気分で見ていたが、次に映し出された海側からの神戸市街地の、あちらこちらから猛烈な火の手が上がっている全景を見て、これは現実なのだとハッと我に返った記憶がある。

私が今も生々しく憶えている当時の震災の状況はこんな感じである。
その後は、刻一刻とテレビに映し出される死者の増えてゆく数字と、一向に鎮火しない火災の様子をテレビは伝えていた訳ですが、そんな騒ぎも少し収まった数日後の事。いつものようにテレビを付けると現場での様子を伝えるテレビクルー達が映す映像が流されていた。ビルの2階辺りからねじ切れるように崩れた数々のビルや、あり得ない程にひん曲がった舗道の手すり、燃え落ちた家屋など見るに堪えない程の悲惨な状況だった。しかし、そんな現場を映し出すテレビクルーに、地元のおっさんらしき人物がこのような事を言ったのだ。

「お前ら、人の不幸を映すんが、そんなにおもろいんか。あんまりふざけてんな・・・。」

という辺りで映像がカットされたのだが、確かに私は後ろの方から指を差し近寄りながらそう言うおっさんがいた事を見逃さなかった。その後いざこざがあったのかどうかは知らないが、それがなぜか今も強烈に印象に残っているのである。

あの頃は今のようにデジカメなどはまだ世間一般には流通はしていなかったのでカメラはフィルムが主体で、大体ああいった現場の撮影というのは「報道」という畑の人間がやる物という常識が通っていた。私もそれには疑問をあまり持たなかった人間である。

ところが・・・

20年経った今、あれから特にあの震災を追究せず、普通に暮らしてきた私は、一体どれほどの阪神大震災の写真を見たのだろうと、ここへ来てふと思った。
ならば、北淡町にある震災記念公園に行くなり、ネットで引くなり、当時の記録を図書館で掘るなりすればよろしいではないかと言う人がいるだろう。それでも構わないです。べつに・・・。その代わりそうやった所で私が今見る写真は、報道の公的な検閲をくぐった、言わばオブラートに包まれた写真でしかないわけだ。しかし当時はデジカメもなければインターネットというインフラも無かった時代だからしょうが無い事ではあるが・・・。
一方、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震(M9.0))はと言うと、実はこちらの方が私の記憶の風化には時間が掛かると思う。
それは記憶が新しいからだ。と言いたい人もいるかも知れませんが違います。
見た写真の内容が違うからです。
報道が流す写真や映像は、人が死ぬ瞬間の物や、死人の姿は極力出しません。しかし東日本大震災ではインターネットやデジカメ、カメラ付き携帯やスマホが普及していたので、個人レベルで撮影された生々しい写真が一時的であるにしろ、ネットに大量に出回ったお陰で、テレビでは不都合な映像や写真を見る事が出来たからだ。瓦礫と化した自宅の中で音もなく死んでいる老人や、津波で犠牲になり入り江に大量に流れ溜まっている遺体など、全てが強烈な物だった。これをテレビで流せとは言わないが、少なくとも私はそれらを見たお陰で、東北の震災は強烈に印象が残り、復興の願いにも熱が入る結果となったし、当然の事ながら阪神大震災よりも風化には時間がかかる結果となるだろう。

一体何が言いたいのか?

と言われそうなので、そろそろ言いましょう。
私は、次に大地震や噴火などがあった時は、絶対にカメラを持って現場の撮影に行こうと決めたという事です。結局最終的に後世に遺る物は写真しかないんですよ。わかるかい?この事実。
そんなのは報道に任せておけと、言う輩もいるとは思うが、そう思う人は家に大人しくいてください。私は行きます。絶対に。白馬の震災も、東北の震災も、なぜ行かなかったのか後悔しております。それは興味ではなく、私はカメラを持ったらカメラマンだから。私に出来る事は写真を撮り、後世に遺す事。カメラマンにはそれしかできません。

「お前ら、人の不幸を映すんが、そんなにおもろいんか。あんまりふざけてんなよ!」

等と詰め寄ってくる地元の人間がいたら私は迷わず、

「私は私に出来る事を今やっている。私相手に憂さ晴らししている暇があったら、あんたはあんたで、今自分に出来る事をやれ。」

と言うでしょう。
阪神大震災の時にテレビに流れたあのおっさんが強烈に印象付いていたのは、実はこのセリフを言ってやりたいが為だったのだと、20年経って要約気付いた。単なる違和感だったのだ。
20年経った今、皮肉な事に、震災に関係した人達は有志を中心に当時の写真を集めたり、資料を引っ張り出したりして、新世代の人達にも見てもらい、風化させぬようにと努力している。しかし、あるのは検閲されまくった報道写真がほとんどなのだろう。そこに真実の真実はない・・・。

何度も言うが、報道に任せておけと言う輩は、家に大人しくしていなさい。現場が混乱するから行くべきで無いという輩も家にいなさい。既に混乱していますから・・・。
私は今度は行きますよ。その出来事を風化させない為に・・・。
ただし、現場へ行けるのは、自己責任ではなく「自己完結能力」のある人間に限られる事を断っておこう。くどいようだがこれは、自己責任とは全く違う物です。
あ、「自己完結型人間」っていうのと勘違いもしないように、よろしく頼むよ。
なぁーんて事を言うと、こういう人間には、世間様は一体どういう感情を持つのだろうか?
ちなみに震災後、うりゃ!!とばかりにクルマ飛ばして現地入りしようとする一般ピーポーを、現場が混乱するからという理由で、行くな!やめろ!と喚いていた人間に対して、私は非常に違和感を持っていた人間の一人であります。そう喚いていた人間は、結局何をしたのだろうか?募金ですか?結局、人に喚く程の事はしていないっちゅう事じゃないっすかね。知った風な事を言って、ねじ曲がった民意を形成してんじゃねーよ。未だに仮設住宅で暮らす人達の事なんて、もはやお前らの頭の中にはないんじゃねーのか?