記事一覧

三つの宗教が絡む真逆の聖地

イスラエルが首都と主張する宗教の聖地「エルサレム」。
この街にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地とされており、壁が張り巡らされてそれぞれの宗派が混ざり合うことがないようにしている。別名「壁の街」とも呼ばれている。小生は外国には興味が無いので実際に行ったことは無いのだが、今はネットの時代、パソコンの前でエルサレムの聖地の雰囲気くらいは伺い知ることは可能だ。実際に行くともっと思うのかも知れないが、やはり壁が張り巡らされた街というのは、一種異様というか、どこか不穏な雰囲気を感じてしまう。実際にこの三つの宗教はそれぞれに宗教としての立派な経典があるのだが、そこから枝のように分かれた宗派によって対立が起こっており、時に一般人をも巻き込む紛争にまで発展することすらある。この地域の血脈を持つ人間がこの世からいなくならない限りは、この宗教対立は永久に解決しないのではないかと思わされるのは私だけではないはずだ。
 
一方で、
同じように三つの宗教の聖地とされているにも関わらず、それらを一つの寺院にまとめて共存の道を歩んでいる、言わばエルサレムとは真逆とも言える宗教聖地が存在する事をご存じだろうか。
その場所はインドにあるエローラ石窟群という所。
ここでは仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三つの宗教が一つの寺院に共存する形となっているのだ。なぜそうなったのか、理由には諸説あるようだが、仏教は基本的に不殺生に厳格な経典の為、宗教間で争いごとが起こらないように、聖地が同じなら同じように祀ろうという事になってエローラ石窟が興されたと言うのが有力なようだ。実際にここではそれぞれの宗教の人達が出入りするのだが、特に諍いが起こることはないという。同じ地球上において、同じ人間が信じる仏神道において、ここまで真逆な結果を生んでいるのは非常に興味深い話だ。
 
エルサレムでは、一つ間違えば諍いが紛争になり、下手をすれば国家間の戦争にまで発展しかねない雰囲気である一方で、エローラ石窟ではそのような雰囲気すら無い安穏とした雰囲気が漂う・・・。

なぜ、ここまでの違いが出てしまうのだろうか。

民族性だとか歴史だとか宗教観だとか、ややこしい古文書の類いを引っ張り出してきて一席講釈をする学者さんもいるかも知れないが、基本的にそういった事ではないと私は思います。ここからは私の説の域を出ないのですが、結構自信があります。

エルサレムに集まる宗教は先述の通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つだ。世界三大宗教のうちの二つまでが聖地としている点も大きい。この三つの宗教の経典の中に一致する物として「携挙(けいきょ)」という物があります。元はキリスト教聖書に記された事なのですが、携挙とは要するにキリスト教を信じる者は、生きたまま天にあげられるという事なのだそうだ。つまり、分かりやすく言い換えると「信じる者は救われる」という教えが根底としてあるという事です。これはユダヤ教にもイスラム教にも一致しています。
信じる者は救われる。一見真しやかな言葉に聞こえますが、これを逆にすると「信じない者は救われない」という事になりますね。これを突き詰めると我らの経典を信じない者=異教徒は救われない、だから我らの教えを信じろ、信じない=反抗してくるならどうせ救われないのだから殺してしまっても構わない・・・となります。これが集団になると「聖戦(ジハード)」という名前が付き、正義は我にあり!となります。これがイスラム系過激派組織の大体の思考パターンです。つまり「携挙」という教えが、対立構造を生んでしまう根本であると私は考えます。

では、
インドの三つの宗教はなぜ融和できたのでしょうか。こちらも反芻しておきますと、釈迦が説いた仏教、インドの民族宗教とも言えるヒンドゥー教、仏教と同時期に生まれたとされるジャイナ教でしたね。どれも元をたどると仏教に近い物があるのですが、特にヒンドゥー教は教祖がおらず、あらゆる物に神は宿るという日本の神道にも似た教えを持っています。この三つの宗教で共通しているのは人を慈しみ、不殺生に厳格であるという点です。分かりやすく言うと「信じていようといまいと、最後に手を合わせれば極楽浄土(又はより良い来世)に迎えられる」という教えです。世界三大宗教と言えばキリスト教、イスラム教、仏教(仏教中ヒンドゥー教が最多)の三つですが、この仏教だけが西洋には無い、言わば東洋の特異な宗教観が盛り込まれた経典と言えるでしょう。あらゆる物に神が宿り、現世での行いが来世での結果となるという輪廻転生(生まれ変わり)や業(カルマ)を説いている点でも特徴があると言えます。で、どうでしょうか。こんな根経典を持った三つの宗教が一つの聖地で顔を揃えた所で、諍いを起こしたり壁で仕切るなどと言う発想になるでしょうか。結果的に三者で話し合って一つの寺院にまとめて、皆でお祀りしましょうという結果に結びついたのも頷ける話です。
西洋と東洋、テレビや新聞ではあまりこの区分で語られる事がないように思うのですが、宗教という観点から見るとこれだけ大きな違いがある事が分かります。宗教というのは人間の考え方の根本に、実は大きな影響を与える物であると私は思います。多分にどちらが劣っていてどちらが優れているとも言える物でもありません。西洋の宗教下に育った人は「信じる者は救われる」を根源として物事を考え、東洋に育った人は「あらゆる者を慈しむ」を根源として事範を判断してゆく傾向が現れるというだけのことです。これを私は高校生の頃の論文で西洋的思想と東洋的思想と呼んでいました。
繰り返しますが、どちらが良いとは言い切れるものではありません。東洋でも内戦や戦争は絶えませんでしたからね。

そこはここで論じることではないと思います。

今回は、写真家としていつかは訪れてみたいと思えた、地上に存在する三つの宗教の真逆の聖地というテーマで一筆書いてみた次第です。