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歴史の大河ドラマって、主役が脇役になると性格まで変わるのよね。

松潤が主役でやっているNHKの大河ドラマ「どうする家康」ですが、人気があるのかないのかよく分かりませんが、実際の歴史の王道とされている考証をなぞる物語である以上、話の筋道は凡そ決まっていますので、この物語の結果は松潤演じる徳川家康が最終的に天下人になります。要はその過程をドラマとして楽しむ訳ですね。ところでこの大河ドラマが歴史の勉強になるかと言われれば、日本史ファンの私的には正直言って「微妙」と言わざるを得ません。と言うのも特にNHKは昔から歴史上の人物を主役にして数々の大河ドラマを作っていますが、主役だともの凄くクールな人物に描かれますが、一度脇役に転じると、性格も行動理由も何もかも変わってしまう事が多々あるからです。まぁ、その時の最新の歴史学者などから考証を得るのでそうなると言われると、そうなのか・・・と言わないと収まらないのかも知れませんが、腹の内では私的にはこの原作者や作家は、この人物があまり好きではないんだなとか、こいつはもっと性格が悪かったと解しているんだなとか、色んな物が見えてきます。
今やっている「どうする家康」は家康が主役ですので家康はとてもクールで人情味溢れ、統率力のある大人物に描かれています。一方の羽柴秀吉はムロツヨシのとても味のある見事な演技が眼目を引きますが、信長の下足を尻に敷いていたとしている点など、全体的にとても卑しく狡猾な百姓出の君主として描かれています。
一方で、その昔同じNHKでやっていた秀吉の生涯を正室ねねの立場から描いた「おんな太閤記」では、信長に従順でこれまたクールで人望のある大名として成長してゆく感じに西田敏行さんが演じ、一方の徳川家康は狡猾な「たぬき親父」という体でありながらも、人質として嫁いできた秀吉の妹・あさひや母・大政所への心遣いを常に行うという人物像でフランキー堺さんが見事に演じておられます。
しかし、こんな感じで、所変われば品変わるという訳ではありませんが、とにかく主役か脇役かで性格がコロッと変わってしまい、時には史実までもが有耶無耶になるのもまた大河ドラマの特徴で、実際の史実はどうか?という事になると結局胡散臭さだけが残ってしまいますので、日本史の史実としての見方をするには「微妙」となるわけです。
ならば、NHKも色んな歴史上の人物をその都度主役にするのでは無く、もう飛鳥時代辺りから数年をかけて作家を変え、役者を変えして明治維新、いや太平洋戦争突入までの物語をずーっと一本の大河ドラマでやったら良いのになぁ・・・なんて事を思ってしまいますがNHKさん如何でしょうか(笑)。これなら主役を特に根贔屓する必要も無いし、話も人物像も一本化できますのでテレビ歴史に残る壮大な歴史ドラマ(変な表現・・・)が出来ますよね。
 
私個人として、日本史を語る上で現代の人々に必ず伝えて欲しいなと思う事が一つだけあります。それは、250年間続いてきた徳川幕府という長期政権が維新という革命によって打ち倒されたのは、幕府の政治腐敗によるものではなく、家康が築いた250年前の徳川幕府発足時からの根深い怨恨から端を発しているという事ですね。この点を明確に指摘する話もドラマも論説も歴史家も今のところ私の視界には一人もいないのが不思議です。徳川幕府は家茂が死に、なんとなく頼りない一橋慶喜が15代将軍職になり、まともに薩長土肥と対峙しなかったから倒されたのではないと私は解しています。というのは明治維新の主軸となった藩を思えば答えが自ずと出てきます。言わずと知れた薩長土肥の四雄藩ですね。この四藩、よく見ると関ヶ原の合戦以降、徳川家康に外様大名として江戸からほど遠い領地に追いやられ、更には参勤交代などで何かと出費を命じられ、常に貧乏で虐げられてきた藩なのです。元を辿ると四雄藩すべてが関ヶ原の合戦当時には豊臣方に付いていた大名家ばかりである事に気付きます。とりわけ毛利家の色が濃い長州藩(毛利を継いだとされる小早川家は秀秋の裏切りが原因で勝敗が決したと知り2年後に狂乱して死亡)は、関ヶ原の合戦以降の250年間、毎年の恒例行事として藩兵が藩主に
「倒幕の用意は如何に出来ておりまする」
と言い、
「いや、未だ時期尚早である」
と返すやりとりが行われていたと言います。それほどまでに長州藩の徳川幕府に対する恨みは深かったという事でしょう。実際に江戸末期になると真っ先に尊皇攘夷を掲げて小倉へ殴り込みを掛けて倒幕の意を示したのは長州藩でした。しかし、当時最新式であったアームストロング砲やガトリング砲(連射式銃)を何門も持つ幕軍や、幕府方の藩にボロクソにやられてしまいます。さらに第一次長州征討で、まさに長州藩は風前の灯火という所まで追いやられてしまうのですが、そこを救ったのが坂本龍馬(グラバーが背後にいたとされています)が率いる亀山社中という集団で、これが幕府に内緒で長州藩に最新式のスペンサー銃やアームストロング砲を調達し、更には会津藩と共に幕府方に付いていた薩摩藩も、長州と同じく外様として長年虐げられてきた同士であると懐柔し、武力倒幕を念頭に置いた薩長連合を成立させます。この頃には土佐藩から脱藩を解かれていた坂本龍馬はかなり自由に動き回ることができたようで、この後に土佐藩に戻り最新式の銃などを藩に紹介して倒幕に加担するように進言しています(山内容堂は隠居)。さらにこの倒幕の機運に同調したのは肥前藩で、それほど裕福ではありませんでしたが、時流に乗るべしとばかりに参加し、旧豊臣方(石田三成方)の薩長土肥で構成される徳川倒幕連合が形成されたのです。
「暴力は暴力しか生まない」
とよく言われますが、この薩長土肥の倒幕の内訳を見ますと、本当に人の恨みという物は、そう簡単には消えず、非常に深く濃い物として刻まれる事が分かります。
ちなみに長州藩士達から見ると、江戸の町の栄華極めるその物自体が気に食わない物だった事でしょう。家康の時代から250年間掛けて創りたもうた江戸の町を跡形も無く焼き払う気満々だったのは言うまでもありません。しかし、それを救ったのがすでに官軍となっていた倒幕方の薩摩の西郷隆盛と幕府方陸軍総裁(元海軍卿)の勝麟太郎(勝海舟)の会談でした。この会談の相手がもし、長州藩の桂小五郎だったら、江戸は間違いなく火の海になっていたと私は推察します。
要は、関ヶ原の合戦で謀略に謀略を重ねた挙げ句見事に勝利した徳川家ではありましたが、その250年後に、さらに当時の敵将の末裔に徳川家が一つ間違えば滅ぼされていたかもという事実です。
実際に松平家の名を冠した藩主を持つ会津藩は、最後の最後まで戦いましたが、攻め来る薩長の軍勢に為す術も無く大勢の藩兵や民衆を死なせてしまった挙げ句に、遺体の埋葬も許されなかったため、鶴ヶ城(会津若松城)は風葬の城というもう一つの名前を持つに至っています。藩士の松平容保は日光に幽閉され、会津藩は再興を許されず事実上の取り潰しとなりました(その2年後に青森県の下北周辺でのお家再興を許され斗南藩を創るが数年後の廃藩置県で青森県に編入されます)。これは江戸の勝麟太郎とは違い、飽くまで松平家の藩として幕軍として戦うという義と意志を貫き通した結果でもありますが、あまりにも悲惨な終焉と言えるのではないでしょうか。

それから・・・

その明治維新から凡そ150年が経ち平成の世になった頃に、実は旧長州藩である山口県萩市から会津若松市に戊辰戦争で戦った歴史を紡ぐ街同士という事で姉妹都市の申し入れがされましたが、会津若松市はこれを即断で断っています。「ならぬ物はならぬ事です」という郷土言葉が今も受け継がれる旧会津は、150年前の戊辰戦争での屈辱を、今も忘れてはいないのです。