記事一覧

京都の古の暗黒?の歴史

京都。
いい所ですね~。
昔も今も、外国人にとっての日本の観光地ナンバーワンであります。それもそのはず、太古の昔に存在した古の日本の面影が、今も色濃く残っており、特に外国人に取っては一番日本という風土を感じる事ができる所となっているからだろう。それは日本人である我々も、京都というと着物を着て歩いても違和感なく溶け込む雰囲気など、どこか遠い昔の風情をDNAが感じ取って呼び起こされるからなのでしょうか、何となく京都観光をすると、まったりと落ち着いた気分になります。

そんな京都ですが、今からおよそ1200年もの昔、西暦794年に平安京という都(=首都)が置かれ、以後鎌倉幕府に至るまでの390年間という日本史上最長となる大時代を築いた頃がございました。学校の歴史の時間にならったであろう俗に言う平安時代と呼ばれる時期にございます。
この平安時代の京都という所は、一体いかなる所であったか・・・。
イメージ的には貴族が闊歩し、絢爛豪華で「雅」という文字が似合う感じですが、実は裏側から当時の「平安京」という都を見て行くと、これがなかなかカメラマン心をくすぐるというか、取材魂を揺さ振られるというか、非常に興味深い物を感じるのであります。今日はそんなお話。

京都の有名観光地で、京都で取り敢えず行ってきましたという名所を挙げますと「清水寺」「鹿苑寺(金閣寺)」「嵐山」なんてどうでしょうか。大抵の方は回られたと思うのですがいかがでしょう?
この3つの超有名観光地、昔の地名で言いますとこうなります。

1)清水寺周辺・・・鳥部野(鳥辺野、鳥戸野)
2)鹿苑寺~船岡山間・・・蓮台野
3)嵐山から北部・・・化野

平安京という桓武天皇が置いた都は条坊制と言われる街造りがされており、きっちりとした碁盤の目のように道路が敷かれた街になっていました。今の京都市よりもかなりこじんまりとした街で、中心の通りが朱雀大路と呼ばれ、これは現在も千本通として現存しています。北限は現在の今出川通よりも少し南。一条通りがクネクネと走っていますがそれよりも少し北辺り。
西は読んで字の如く西京極を通る縦のラインです。
南限は現在の九条通で、東は鴨川の正面通の所からの縦のラインです。この四角形の内側が平安京の街で、推定で約12~14万人の人々が暮らしていたとされています。この外側は「洛外」と言われ、現在は市街地になっていますが当時は周囲の原野原林の山へと連なる深い野原でありました。都という割には案外少ない人口のように思われますが、当時の日本の人口は、これも推定ですが500~600万人と言われていますから40人に1人は都に住んでいた訳で、そう考えるとやはり結構な密度であったと思われます。まぁ、この人口格差が地方の治安に影響し、次の鎌倉時代を迎える燻りになってゆくのですが・・・。
さて、この「雅」という文字が如何にも似合う平安京の街ですが、実際はどういう街であったかと言いますと、実は欠陥だらけのひどい街だったと推測されています。その最たる物が屎尿処理施設が皆無だった事。下水道はもちろん、汲み取りのシステムも無かったんですね。ではどうしていたかと言いますと、東西の河川が近かった者は川へ捨てに行っていたと思われます。南北限の者は洛外でしょう。しかし洛中の中心街に住む者は、目立ちにくい裏通りに捨てていたようです。これは現在の不法投棄と同じで、どこかで溜まり出すと人はそこに集め捨てるようになります。なので洛中の場所によっては屎尿の臭いが立ちこめていた・・・とされています。こりゃ溜まりませんね。(;゚ロ゚)
二つ目は、平安の時代ではまだお風呂という物が無かった。だから帝も貴族も庶民も皆、体中から垢が吹いているにも拘わらず、そのまま暮らしていたんですねー。これは女性の着物の内側から、白粉と呼ばれる、いわゆる垢がたくさん付着していた事から推定されています。なぜ風呂が一般的でなかったと言いますと、要は薪が貴重だったからです。その上お風呂の習慣も無かったからです。西洋でもお風呂が一般的になるのは近代に入ってからですから、裸の付き合いというのは実は割と新しい文化なのです。
そして、三つ目が遺体処理施設がなかった事です。人はいつか死にます。現代では死者を敬い、丁重に葬儀を行い、火葬されて埋葬され、その後は縁ある者が墓参りもしますが、平安の世では死んだ者の遺体はそこまでの値打ちを見いだしておらず、どちらかというと呪いが移り、災いが自分に降りかかってくるという迷信が信じられており、忌み嫌われるものであったようです。そう、平安時代はまだ陰陽道や占いによって治政や行動をしていた時代だったのです。しかし貴族など高貴な身分の遺体は、お祓いが為された後に火葬され、それなりの墳墓に埋葬されていたようです。それらの遺構は現在の泉湧寺周辺にある墳跡に見る事ができます。しかし、そうではない者の遺体はどうしていたかと言いますと、なんと当時の平安京では「風葬」が行なわれていたのです。
風葬とは何かと言いますと、要するに遺体を野原に捨て置き、風化するのを待つと言う葬儀です。先ほども言いましたが薪は貴重な物でした。なので一般庶民が薪を使って火葬するなどあろうはずも無い事だったのです。土葬にしても穴を掘るのに人手がいりますのでこれもお金がかかります。一番リーズナブルで手軽な方法として風葬という方法が一般化したのだと思われます。その遺体葬送の場所として平安京では洛外となる鳥辺野、蓮台野、化野の三カ所とされていました。そうです、先に出てきた現在の超有名観光スポットと微妙に重なるのです。興味深くなってきましたねー。

先の三カ所は、京都の三大風葬地とも呼ばれている所で、現在もか大きな墓所があったり、寺院があったり、火葬場があったりするので、地元京都の人なら大抵の人は知っています。では順番に見ていきましょう。
 
1)鳥部野
「とりべの」と読みます。現在の清水寺から南の泉湧寺辺りまでの阿弥陀ヶ峰の麓一帯です。現在の五条陸橋辺りまでの北部は一般庶民の風葬地で「鳥辺野」と呼ばれ、南部は高貴な人達の葬送地で「鳥戸野」と呼ばれました。その総称が鳥部野というわけです。読み方はどれも同じです。
平安京中期以降では特に左京が栄えていたため人口も多く、一番大きな風葬地であったと思われます。葬送者は荷車に遺体を乗せ、当時の五条通であった現在の松原通を通って洛外へ出、鴨川を渡り、六道の辻と呼ばれるあの世とこの世の交差点を越えて、阿弥陀ヶ峰へと続く林野に遺体を捨て置いていたようです。そのうち山裾まで持って行くのも億劫になった者が、手前に捨て置くようにもなり、ついには鴨川縁にまで遺体が捨て置かれるようになったようです。現在、轆轤町と呼ばれている辺りはドクロがゴロゴロしていた為、江戸時代より前までは髑髏町と呼ばれていたと言います。また大雨で鴨川が氾濫すると、遺体がそこら中に散乱したとも・・・。あまりに無情な惨状だったため、音羽の滝に祠を造って死者を祀ったのが清水寺の始まりとされています。ちなみに、鳥辺野では遺体を木に括り付けて鳥に食わせて葬送を行う「鳥葬」も行われていた事から「鳥辺野」と言われていたようです。清水寺の横にある大きな墓地は、当時捨てられた無縁仏を祀る所でもあります。また清水寺が舞台と呼ばれている高床式の造りになっているのは、遺体の腐臭がキツかったためと言われています。なお、舞台から投げ捨てていたというのは諸説あって私には分かりませんでした。
 
2)蓮台野
「れんだいの」と読みます。
一般的には船岡山から紙屋川(現在の天神川)に至るまでの北西一帯の地域で鹿苑寺は含まれないようです。
千本今出川の少し南にあった平安京の北限から洛外に出て、千本通を更に北進すると閻魔前町に着きます。読んで字の如くここからが死者の世界との境目とされていたようで、その先は蓮台野へと一直線に道が続いています。現在では北大路の更に北の方までが市街地になっていますが、当時は原野が広がっており、風葬地以外の一帯では貴族たちの遊猟場であったり薬草の採取場にもなっていたようです。とりわけ紫の色粉が取れる植物が群生していた事から蓮台野を含む広範囲な場所を指して「紫野」と呼ばれるようになったと言われていますが、これも諸説あるようです。
しかし、貴族の遊び場が風葬地と重なるというのは、私的にはどうも合点がいかないんですね。陰陽道や占いを特に信じていたのは貴族であり、遺体を不吉な者として洛外へ捨て、生ける者の近づく場所ではないという風にしたのも貴族が主体です。その貴族たちが蓮台野に近づくような事をするでしょうか・・・。これは私の推測ですが、風葬地として指定したのは実はきぬかけ山(衣笠山)だったのではないでしょうか。現在の大文字山から鹿苑寺を含む衣笠山一帯です。しかし、いつしか民衆はその手前の紙屋川辺りで捨て置くようになり、蓮台野が形成されたのでは無いかと言う方が、鳥辺野の例を踏まえても自然な感じがするのですが、いかがなもんでしょうか。
 
3)化野
「あだしの」と読みます。
嵐山から北へ徒歩20分ほど歩いた鳥居本と呼ばれる一帯です。現在の愛宕街道の辺りは遺棄された遺体がゴロゴロとしていたと言う事です。その余りにもはかなく無情な惨状を憂いた弘法大師空海が、散らばった遺骸を集めて土葬を行い、供養をする為に建立したのが「化野念仏寺」の始まりとされています。現在でも夏に千灯供養と言ってたくさんのろうそくを灯して8000体とも言われる無縁仏を供養する大祭が行われています。しかし、このお寺の周辺だけに遺体が捨て置かれたと言う訳では無く、私の推測ですが、恐らく現在の愛宕街道周辺の山肌、鳥居本から嵯峨野一帯に遺体がそこかしこに捨て置かれていたのでは無いかと思われます。
ところで、私的にはこの化野という風葬地が三大風葬地の中で一番奇異な存在に映るのです。と言うのは、鳥辺野には六道の辻、蓮台野には閻魔前町と言う風に「あの世への入り口」があるのですが、この化野だけはその入り口の言い伝え(情報)が無いのです。ただ漠然と化野念仏寺周辺に、遺体を捨て置いていたという事だけなのです。しかも地理的に見ても蓮台野へ行けばいいんじゃないのか・・・と思わされる程に、化野だけが平安京の西端から結構離れているんですね。しかも、どこを通って化野へ捨てに行ってたのかも私的には謎です。新丸太町通は当時はあったのでしょうか。とにかく一番謎が多い風葬地なのです。それ故か、今も一番寂しい雰囲気が漂う所でもあるのです。当時の都の民は遺体を荷車に乗せて、どこから洛外へ出て、どのルートを通って化野の風葬地へと運んだのでしょうか・・・。それが今の私の一番の謎なのです。謎があると興味も湧く訳で、何かと一番足を運んでいるのも化野だったりします。
 
いかがでしたでしょうか。
京都の裏側の歴史の数々。特に1200年前に風葬地として存在していた場所が、今も色濃く面影を残していると言うのもとても興味がそそられないでしょうか。平安京の話に戻りますと、実は屎尿の他にも遺体でさえも風化するほどまでに洛内に転がっていたという事です。それほど迄に人の死という物が忌み嫌われていた時代だったんですね。故に平安京の街は異臭と疫病が漂う「雅」とはほど遠い汚濁の街であったという説が有力です。
ちなみに京都で「野」が付く地名は、大なり小なり葬送の場所であったと言われています。とりわけ「風葬」という現代では奇異な葬儀方法が、この日本のかつての首都で当たり前のように行われていたというのが、取材心を擽られるんですね。私は「風葬」とは言っているものの、実際は遺体を「忌むべき物」として、単にうち捨てていただけでは無いかと考えています。それほど迄に人の死に対する尊厳も値打ちも無かった時代、それが平安時代という時節なのかな・・・等と思いを巡らせてしまいます。そんな自分の想像がどこまで当たっているのかを確かめるべく、近いうちにこの三大風葬地を、その視点で巡ってみたいとも思っています。